こんばんは、しまちゃんです。
今日は、教師という仕事について考えてみたい。
私は現在教育産業に従事しており、フルタイムではないものの、教壇に立って高校生に英語を教える機会を頂いている。もちろんフルタイムでないということが、私の教務力を必然的に物語っているわけではあるが。※教務以外に色々な業務も行っている。
私が「先生」になろうと考えた最初のきっかけは単純で、英語が得意で好きだから。それだけ。むしろ「それ(英語)しか私にはない」という考えから、前職にいるときに安易に教師という職業を考え始めた。
しかし実際に高校生を教え始めて逆に教えられたことが多いし、自分がその担当教科を好きということだけではどうにもならないことがあるということが分かってきた。こんな私が教師職について語るなどおこがましいが、どういう人が教師として向いているか、不向きかも、教師としてあまり成功しているとは言い難い私だからこそある程度見えてきたとも考えている。
それらを踏まえ、今日はどのような人が教職向きかそうでないかを中心に私の個人的な見解などを交えながら書いていきたい。※私は高校生しか教えたことがないので、この記事は高校生の先生を念頭に置いていることを最初に断っておきたい。
この記事は、
- これから(教科・塾/公教育を問わず)教職に就きたいと考えている人
- 親や保護者の立場で、教師がどのような考えで教壇に立っているのか知りたい人
に主に向けて書いているつもり。
教師という人たちが現場でどのような仕事をしているのかについて、これから教職を考えている若い人や、子どもを持つ親の世代の人の参考に少しなればいい。ただしこの記事では、先生が抱える「教える」以外の仕事、例えば校務分掌や業務上必要なその他の業務については触れていない。
「生徒の学力層」と「教師が教えることが得意な生徒の学力層」の関係
教師として向いていない人、または向いている人について言及する前に、この「生徒の学力層」と「教師が教えることが得意な学力層」の組み合わせ(関係)を無視することはできない。しばしば、特に公教育の現場においてはこの2つの関係に齟齬が生じていて、それが生徒の不満や教師側のフラストレーション、ひいては全体的な学力低下、学力の底上げ失敗を引き起こしている。
つまりこれは向き、不向き以前の適材適所の問題だ。ミスマッチが起きると、不幸が生じる。具体的にどういうことか見ていく。
学力層による生徒の違い
学校や塾のクラスには、当たり前だが複数の生徒がいる。その中には、できない(学力が低い)子もいればできる(学力が高い)子もいる。公立学校であればあるクラスにおける上位の生徒と下位の生徒の学力の幅は広い傾向にあるだろうし、塾などできちんとクラス分けされていたり人数が少なければこの幅は狭くなる。
実は、学力の高い生徒と低い生徒では大まかに以下のような特徴がある。我々先生側からみた特徴だ。
なお、実際にはこの2つのタイプだけではもちろんなく、中間層も圧倒的に多く存在していて、例えば一生懸命、熱心に勉強はするがなかなか成績がついてこないという生徒も数多くいる。この記事ではスペクトラムの両極端を紹介しているだけ。
※ちなみに私は東大に合格するような生徒を教えたこともあれば、中学生で習うような英単語もままならない生徒を教えた経験もある。
学力の高い生徒の特徴
- 自分で進んで学習ができる
- 言い換えれば、放っておいても勝手に勉強してくれる
- 課題などをたくさん出されても、こなすことができる
- わからないところは自分で調べて、それでもわからないところを質問に来る
- 自分の志望校の情報や出願日、試験日などを進んで自ら把握し、志望校自体も自分で決定する
- 授業のレベルが自分と比較して低いと(または自分にとって不必要だと感じると)、授業に出席しなかったりする
- 逆に難易度の高い問題などを扱えば扱うほどモチベーションが上がり、授業に惹きつけることができる
学力が低い生徒の特徴
- 定期テストなど、イベントがなければ自分からは勉強しない
- とにかく勉強しない(興味がない)
- 課題(宿題)が増えると対応できない
- 分からないところがあっても放っておく
- 志望校が自分では決められない、調べる方法も知らない
- ひどい生徒はセンター試験に出願することを忘れたりする
- 授業が自分のレベルよりも少しでも高いと、集中力を保てない、寝る
- 逆に授業のレベルをだいぶ落とすと、なんとか聞くことができる、それでも寝る
教師が教えることが得意な(好きな)学力層
これは、是非これから教職を目指している人に考えてほしいところ。自分がどちらの生徒に教えることを得意とするのか、自分の教師としての適性はどちらなのか、知っておくべきだ。もちろん公立の学校であれば、どちらが得意かなんて言っていられないだろう。様々なレベルの生徒に対応する必要に迫られるし転勤も発生する。しかし教師も人間。もちろんオールマイティにどんな学力の生徒にも対応できればそれに越したことはない。しかし、誰にでも好き、嫌い、向き、不向きがある。自分の特性は最初に認識しておくべきだ。先生はスーパーマンである必要はないので。
高い学力の生徒を教えることが得意な先生
- (生徒というよりは)担当教科に対し熱意と、圧倒的な知識と専門性、自信を有している
- その教科が好きであることは言わずもがな
- 必ずしも生徒のレベルに合わせる謙虚さは必要ではなく、逆に引っ張り上げ、リードする強引さや時には傲慢さ、厳しさが高学力の生徒から人気を得る手段となり得る
- コミュニケーション能力は必ずしも必要ではない
- 大学の二次試験問題に精通しており(つまり大学の二次試験程度は苦も無く解くことができ)、また研究することも厭わない
このような点に多く該当する人は、どちらかと言えば高学力の生徒を教えることが非常に合っていると言えるだろう。
このような人が低学力の生徒を教えなければならないシチュエーションを想像してほしい。自分が好きな教科に対する相手側(生徒側)の情熱はゼロに近いし、まったく勉強もしてこない。「なぜこんなことも分からないのか」という無力な質問が常について回ることになる(下手をすると実際に口に出して言ってしまう)。また、教えたところで次回の授業には完全に忘れている。
そして、「そんな当たり前のこと、当たり前すぎて説明できない」という悩みも抱えることになる。「私は英語が好きです」という文に対し、なぜ「英語『を』好きです」、ではダメなのかということを理屈で説明することは、実はこういう先生にとっては(当たり前すぎて)難しい。高学力の生徒はそんなことは聞いてこない。
(比較的)低い学力の生徒を教えることが得意な先生
- 教科に対する知識や情熱よりも、生徒に対する愛情が必要不可欠
- むしろ担当教科を、自分自身とても苦労して身に付けた人が向く(もともとは苦手だったなど)
- 人間的に優れており、コミュニケーション能力や共感能力にも長けている
- 生徒に分からないところがあれば、自ら生徒の高さ(低さ?)に降りていけ、合わせることができる優しさと謙虚な姿勢を有している
- 生徒を「引っ張ってゆく」よりは、「一緒に考える」ことができる
- より高い授業力(授業で分かりやすく教科を説明する能力)がある
このような人は、圧倒的に学力が比較的低い生徒に教えることが向いている。また、一緒になって志望校なども考えることができるので、進路指導についても能力を発揮できるだろう。逆に、学力の高い生徒にとってはこのような先生は毒にも薬にもならない。勉強面で得られることはあまりないし、進路指導も大して必要ないからだ。下手をすると、生徒のほうが担当教科について多く知っていたりする。
なお、私はと言えば、自分では「学力の高い生徒に教える方が合っている」と考えてはいる(いた)が、最近では比較的低い層に教えることも増えてきて、自分でも不思議なのだけど、そちらの方が合うようになってきた気がしてきた。相変わらずコミュニケーションは苦手だが。
このことから考えると、人はある程度であれば、変わることは難しくても、適応できるということだ。または、足りない部分は別の能力(私の場合は受験に対する知識や英語の発音など)で補うことができるということ。
以上、両極端のタイプの教師を紹介した上で、本題の教師として向く人、向かない人を考える。
教師として向いている人
自分の担当教務に最低限の愛情がある人
当たり前のことだけど、数学が嫌いな人は数学の教師になるべきではない。いないと思うが。しかし、必ずしも「得意」である必要はない。むしろ、元々その教科が苦手であった方が、分からない、理解できない生徒の立場になって考え、教えることが可能になるため、「分かりやすい」指導ができることが多い。ただこのタイプは授業の予習などで苦労するだろう。※先生は授業の予習に授業の数倍の時間を割くことも珍しくない。
高い専門性や知識は必要ないが、あればなお可。ただしそうであっても、その教科が「分からない」生徒の立場に立って説明することを決して苦に思わない人であるべきだ(先生なら当たり前か)。
(ある程度の)責任感がある人
当然だが、生徒に責任を持って教科を教えることができることが大前提。「どうせこいつら数年でいなくなるし」などと思ってはいけない。しっかりと生徒の将来を親身になって考え一緒に悩んであげられる人が向くだろう。しかし、責任感が強すぎるのもあまり良くないと思われる。
なぜなら、生徒はあくまでも他人であって、そんな一人ひとりの生徒の将来までを背負ってしまっては、正直精神的にもたない。先生も年齢を重ねると自分の家族の問題や健康の問題などを抱えるようになるし、それにプラスして他人のことまで自分の子どものように考えられる人は本当に稀だ。つまり、どこかで妥協、「演技」が必要になるということだ。
生徒(人)に興味を持つことができる人
人の将来について興味を持ち、関わりたいと思う人は向いている。ハッキリ言って、私のように「自分だけにしか(主に)興味がない」、「他人のしていることにあまり興味がない」という人は向かない。これは良い、悪いではなく、向き不向きの問題。これは実は私もそうなのだけど、他人に興味をあまり持つことができない人はいる。
演技ができる人
大人になると、さまざまな場面で演技が必要だということがわかる。そして教職では特にこれは顕著だ。もちろん1番は授業における「演技」。普段の自分では普通生徒はついてこないので、大声を出したり、逆に小声になったり、受験生なら誰でも知ってて当たり前という話し方をしたり。分かるフリをしたり。ただ、授業では素に近い自分で生徒を惹きつけられる人はやはり強いと感じる。
また、生徒と接するときにも演技は有効だ。本当はそこまで生徒について気にかけていないとしても、大げさなくらい「大丈夫か!」と心配してみせ、親身になっているよう見せることができる人はある意味生き残ることができる。
しかし子どもは信じられないくらい鋭くまた洞察力に優れているので、大人の嘘はすぐにばれる。本人たちも気づいていないかもしれないが、大人側の微細な心情の揺れを察知する能力を子どもは生まれつき持っていて、それに素早く反応する。一種の防御本能だ。
なので、演技はするにしても本当に入り込まないといけいない。そうしないと彼らは騙せない(いい意味で)。
教師として向いていない人
自分の担当教務に自信がありすぎる人
特に、もともとその教科が得意で好きだった人は意外と教師としては躓くことが多いと思う。なぜかと言えば、生徒の「できない」が理解できないから。教師力は大部分が「共感力」と言ってもいい。しかし自分の教科が初めから得意だった人は、生徒の「なぜそうなるのか」が理解できない。
人に興味のない人
友人が少ない、人の行動にあまり興味がない、など、人間に対しあまり興味がない人(私じゃないか!)は、正直教師としては一番向かないタイプだと思う。専門知識の有無にかかわらず、自分や生徒が困ることになることが予想されるため、安易に教職には近づかないことをおススメする。特に、勉強が大好きで、ある教科に非常に強いというだけで教職を考えるのは危険だ。研究職なんかがいいんではないでしょうか。
馬鹿正直な人
上にも書いたが、やはり教職というのは生徒と接する上である程度の「演技」を必要とする。正直すぎて自分の素を出し過ぎてしまう人は、生徒と悪い意味で対等に接してしまう傾向にある。先生と生徒は対等ではないにも関わらず。生徒に対し本気で切れたりするのもこのタイプ。
おわり
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